舞台コインロッカー・ベイビーズを観る前又は後に原作読む時間ない人向けの補足メモと考察

音楽劇「コインロッカー・ベイビーズ」再演おめでとう。

◇これは舞台コインロッカー・ベイビーズを観劇予定、または済みの原作未読者のかたに読んでいただきたい補足メモです。

コインロッカー・ベイビーズ気になって観に行く、または観に行ったけど原作読み返す時間がない、そこまでする気力がない、でもブログ読む程度の時間と気力ならある、というかたに読んでいただいて、少しでも舞台を楽しんでいただけたら、原作の魅力を知っていただけたら、幸いです。

 原作を読んでいるかたは、知ってるわそんなこと!ということばかり書いてあるので、すみません…。すごく舞台を楽しみにしているかた、モチベーションの下がることが書いてあるかもしれないので、気をつけてください。

 

 文章がへたっぴですが、大目に見てくださると嬉しいです。がんばって、丁寧に書きます。7000字程で長いですが、観劇前と後で分けているので、3500/3500字くらいです…。

 

個人的に今回観劇してみて、原作のこの部分を補足したらもっと役のお芝居の見方が際立つだろうな、と思ったところをまとめています。

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このブログより公式サイトのあらすじ読んでおけばとりあえず話の展開は分かると思います。本末転倒ですが…。

コインロッカー・ベイビーズ| PARCO STAGE

 

⚠︎原作のネタバレが入ります!というかほぼ原作の受け売りです。(考察も少しだけ)舞台の演出ネタバレはなるべくしない方向ですが後半少しあるので注意です、原作とか気にせずまずは舞台を楽しみたい、という方はお控えください。

 ◇は観劇前に押さえておきたいこと、舞台ではあまり触れられませんが、知っていた方が話がわかりやすいと思います。◆は舞台観劇後に原作と擦り合わせた個人的な考察、補足です。

 

 

 原作の物語構成では、

①孤児院での生活(ハシキク幼少期)

②島での生活(小学〜中学生頃)

③東京での出来事(16〜17,18歳頃)

④ハシとキクの末路

の4つに分かれていると思います。

舞台では③での展開が主にされています。

個人的には①②がとてもあとあとの展開に響くので、ここの部分をもう少し舞台で描写してほしかった…。

 

以下、話の展開に沿って補足しています。

◇主人公ハシとキクの関係について

二人はコインロッカーに捨てられた孤児で、一緒の孤児院で育つ。コインロッカーに捨てられた赤子で生き延びたのはこの二人だけ。

この過去が二人の関係の核あり、全て。共存関係。そしてどこか対極的。

幼少期ハシ:生まれつき体が弱い。キク以外の人との関わりを拒む。

幼少期キク:ハシをいつも助ける。こわい大人から、いじめから。

原作抜粋

 キクにもハシが必要だったのだ。キクとハシは肉体と病気の関係だった。肉体は解決不可能な危機に見舞われた時、病気の中に退避する。

 

◇幼少期の自閉

ハシは神経系の喘息で微熱が下がらなく、キクと遊べなくなってから奇妙な飯事に熱中する。(豊かな自閉)ガラクタを並べたり、時には破壊したり。飯事を妨げた女の子の首を締めようとするなどの異常行動を度々起こす。

一方そんなハシの姿を見たキク

キクは身代わりに泣いてくれる傷が癒えるのをただ待てばよかったのだ。ハシは模型の傍で眠るようになった。ハシはキクとは無関係にミニチュアのために怯えたり泣いたりする。傷は肉体を脱して自立したのだ。傷は自らの中に閉じ籠ることができるが、傷を失った体は新しい傷を求めなくてはならない。

 (恐らく傷はハシ、肉体はキクのことを比喩しています)

ハシが自閉的になったことにより(?)キクも自閉的になる。急激な空間移動。(貧しい自閉)一人でタクシーに乗って遠くまで行ったり、ジェットコースターに無表情のまま乗り続けたり。この行動は何か大きな回転体が轟音をあげて飛び立とうとしているという強迫観念、回転体が自分を吹き飛ばそうと、置いていこうとする恐怖感、不安感に抵抗するためだと思われる。

医者曰く、二人にはコインロッカーに捨てられ死に直面した時の無意識下の恐怖と、それに自分が激しく抵抗して勝ったということが脳の記憶回路にセットされており、その二人を生き延びさせた強大なエネルギーを制御できなく、自閉症になってしまった。らしい。(このエネルギーが二人の精神状態の根底にあると思われます。)

しかしこれらは、精神医の治療によりエネルギーを封じ込めることに成功する。(ヤッタネ!)

治療とは、音を聴かせること。母親の心臓の音。(ちなみに、2人はこの治療を治療として自覚していません。シスターからは映画を見よう、くらいにしか言われていません。)

 「あの二人の子供は、自分達が変わったという自覚を持ってはいません、世界が変わったのだと思っています。」

 

◇島での生活

来年小学校入学という年の夏、 二人は双子の兄弟として西九州の離島の夫婦に養子にもらわれる。

(ここの場面が原作だとすごく綺麗に、儚く書かれていて話の展開においてとても重要なポイントなのに、舞台だとぽっかりない…!)

・進入禁止の無人の街、廃墟の探検

・小学校での出来事

・海での思い出

など…(舞台と関連してるのはこのへんかな)

廃墟の探検、ここはハシとキクの城。二人だけの秘密の場所で二人の遊び場。ここで野犬に襲われかけ、廃墟に住んでいるガゼルに助けられる。(その話は後ほど)

小学校の出来事、ハシが母親について同級生にからかわれた時、キクはその同級生を半殺しにする。←キクの暴力の目覚め(普段は物静かな性格)

海での思い出、(舞台では海も大事なキーワードになっているので…、これは考察ですが、二人が離島に来たのも、海が見えるからで、孤児院で海の絵を見ていたり、自閉の治療の際に海の映像を見ていたり、ゆかりがあるものなんだと思います…)島での生活でもよく遊んでいる。砂浜ではキクが走ったり、棒高跳びの練習をしている。

そして2人が中学生になり、服を買いに和代(義母)と佐世保のデパートへ行った時、ハシはショーの催眠術にかけられたのを境に、自分の中の抑え込んでいたエネルギーが爆発し、再び自閉的になってしまう。今度は引きこもりがちになりテレビの音を延々と聴くようになる。かつて聴いた音を探している、という。

キクはハシを元気づけようと廃墟にいた子犬を拾おうとする。(ここで拾った子犬の名前がミルク)そこで再び野犬に襲われるが、ガゼルに助けてもらう。

◇ガゼルとダチュラ

ガゼルは髭を生やした男。いかつそうだけどやさしい。

 キクはガゼルの住む廃墟の映画館で初めて棒高跳びの映像を見る。そこからキクは跳ぶことによって自分の衝動を発散できると感じ、棒高跳びに打ち込み始める。※舞台では器械体操に変わっています。(ハシが幼少期の頃の状態に戻ってしまった一方、キクは棒高跳びをすることによって、幼少期の頃から怯えていた恐怖に打ち勝つ術を手に入れたのだと思います。ハシとキクの精神の対比。)

ダチュラ」はキクがガゼルから教わったまじないの言葉。

「お前には権利があるよ、人を片っぱしからぶっ殺す権利がある、おまじないを教えてなるよ」

「おまじない?何の?」

「人を片っぱしから殺したくなったらこのおまじないを唱えるんだ、効くよ、いいか覚えろよ、ダチュラダチュラだ」

ダチュラとは、本来は毒物で神経兵器。

とにかくやばい薬。服用すると凶暴化し強烈な破壊衝動に苦しむ。これを使いキクは後に東京を爆撃しようとする。

 

◇ハシ、東京へ それを追うキク

ハシはある日テレビで作家(小説)のインタビュー番組を見ていた時、自分を捨てた母親らしき人物の話が上がり、自分が探している音と母親の手がかりが東京にあると考え、ハシは姿を消してしまう。

キクはハシと一緒にそのテレビを見ていたため、きっと東京にいるだろうとハシを追って東京に向かう。一緒に和代も付き添うが、東京の悪い奴らに絡まれたり、頭を打ったりして弱り、泊まっていたホテルで死んでしまう。

 

舞台ではその後、キクはハシを探し続け再会した後の話を主に展開しています。

ハシとキクの関係は幼少期と島での生活で培われた、一言では言い表せないほどの深い絆があるということを、少しでも伝わればいいなあ、と思います。舞台でその描写は一切ないので…舞台でキクがハシにものすごく執着するのはこれらの過去があったからなのかな…?

 

ここから先は原作と舞台を擦り合わせた考察・感想含む補足説明、舞台の中身の話も少ししてるので、ネタバレだめな方はお控えください…。一緒に観劇した友人(コイベビ未読)の観劇後の不明点を参考にしています。観劇後に読むのがおすすめ。

 

◆キクが東京を爆破しようとする理由

原作でキクが東京を爆破させようと初めに描写されているのは、和代の死に直面したときです。キクはこの時、コインロッカーで生まれた時と同じ声を聴きます。

壊せ、殺せ、全てを破壊せよ、赤い汁を吐く硬い人形になるつもりか、破壊を続けろ、街を廃墟に戻せ。

キクは東京をコインロッカーの中と重ね、和代のように死んでいくのではなく、東京(コインロッカー)を破壊し、大きな産声(東京を爆破すること)をあげて外の世界へ生きようとしているんだと思いました。(舞台ではその描写は少しもないけど、原作読む限りそう感じた。)

 

薬島について

薬島とは、浮浪者、精神病者、乞食、オカマ、家出少年などのヤバイ奴らが集まるスラムみたいな化学物質の汚染区域で鉄条網で隔離されています。

ハシとキクが再会する場所。舞台ではキクはハシがここにいる!と思って薬島にポイっと乗り込むけれど、原作では薬島にある「マーケット」にダチュラがあるという手がかりを掴み、多分ハシもここにいるだろうな、みたいなノリだった気がする。

ハシがなぜ薬島にいたのかは原作で描かれているハシの歌の性質と関係していますが、ハシは歌い方によって聴き手の心情を動かす力があるようなので、その歌い方の研究対象として、薬島の人々に歌を聴かせていました。(見せ物として、なので化粧をしています。) タツオ(拳銃の男)とはその間に出会い、一緒に暮らしている。

ちなみにキクとアネモネが出会うのも原作ではタクシーで助けたのではなく、薬島の鉄条網を飛び越えるために運動場でキクが棒高跳びの練習をしていた時に出会う。

(タクシーのシーン、原作では狂った運転手が人を殺したあと薬島に迷い込み、一悶着あり、そのあとアネモネは最初にハシと会ってる。)

 

◆ハシの歌について

なんで舞台でここの描写が全然ないんだよおおおおおおおお音楽劇でしょ!!!!!!ハシの繊細な声の描写もっとあっても良かったじゃん……。

聞こえてくる鳥の鳴き声がゆっくりと旋律に変わった。初めてハシが歌っているのに気が付いた。不思議な声だ。とても小さなスピーカーから響いてくるような声質、部屋の片隅の転がった電話の受話器から洩れている音に似ている。ハシの歌声は流れずに立ち込める。旋律を発する極薄の膜が耳を包み込んだようだ。弱々しく感じられる音は肌に貼り付き毛穴から体に侵入して記憶の回路を揺さぶった。振り切ろうとしてもだめだった。歪んだ視界が色を失い匂いや温度が切り離されて、ハシの歌の旋律が作る幻覚が現れた。

これは考察だけど、原作ではハシは自分の歌で自ら心臓の音のような安堵感を探していたのかなと思った。それなのに、病んで舌を切って声質を変えた時は酷くショックだった。ハシの声の描写が好きだったから。ハシがどんな思いで声を変えようとしたか描写してほしかった、音楽劇なんだし、ここだけは……。

でも、青い舌の妖艶な歌とダンスは、すごく良かった…。ここでハシの全部を掴まなきゃいけない、大切な部分。これのためにお金払ったよ、もう。今のキク役が後半にハシをやるんでしょう?すごい、楽しみすぎる。

 

◆Dとハシ

原作:ハシが東京での生活中にDと出会い、ハシはナンパされて一緒にレストランへ、そのあとハシはDに体を預ける。(ホモの目覚め)そこでハシはDに自分の歌を聴かせ出生の話をしてしまう。Dはそれを聞いてこれは売れるぞ!お前は歌手なれ!と言う。ハシは歌手なる決意をする。(ざっくり)

ハシは、ずっとキクを羨ましく思っていて、自分の存在意義について考えていたんじゃないかな。

でもDは自分の歌を見出してくれた、必要とされたい、強くなりたいという気持ちがハシを歌手にさせたんじゃないかと思う。

 

◆キクが母親を殺す場面で思うこと

目の前にいるのはハシの母だと思っていたのに、それは自分の母親だったという衝撃と、ハシにそれを告げられたという裏切られ感はハンパない。

ハシわかったぞ、お前はガラクタの山を作って俺を放り込んだんだな、泣いている振りをして俺を騙したんだな。

いつでもハシを守ってきたのはキクだった。ハシのことを理解できるのは自分だけだ。そのはずなのに、ハシは向こう側にいた。この絶望感と目の前で起きている状況に板挟みになっているキクを思うと心が痛い。キクはハシの傍にいるし、東京まで行くし、ハシがお母さんと再会するところを止めに行くけれど、ハシがキクに何かしてあげたかって言ったら、特になにもしてない…?端々から、競ってる?試してるように感じる部分もある…。さっき共存関係とか書いたけど、どちらかというとキクの方がハシに執着している気もする。

 

◆狂い出すハシ

ハシが狂うのは舞台において見せ場だけれど、その理由?きっかけについて原作と擦り合わせると、ハシは自分が分裂しているように感じていたのかなと思った。

歌手の華々しい着飾られた大人気の自分と、コインロッカーに捨てられてキクに守られてばかりの惨めな自分。舞台でも「体が二つに割れているだろう!?」みたいな台詞があったけれど多分、二つってそういうことなんじゃないかな。自分が誰なのかわからなくなってくる。母が死に、自分を縛っていたものはなくなったと感じるも、大成功してるはずの歌手サイドのバンドはうまくいかなくなるし、キクは島の恥なのに愛する人がいて(自分にもニヴァがいるのにね…)、自分が死ぬほど聴きたかった音を聴いた、という劣等感に苛まれる。

あと舞台を観て、自分に子どもができたのも精神の揺らぎに関係していると思った。ハシは親に捨てられた立場なので、「子どもを育てる」ということに対して自信が持てなかったのかなあ。

売れた理由の一つに自分の出生のエピソードということもあり、コインロッカーに捨てられたという過去(周りからの同情も含む)はいつまでも追ってくる。それらが人間の顔をした蠅だと思った。(蠅はハシ自身、ここは本当に個人的な感想です…)

そして、今の自分を正すためには心臓の音を聴かなきゃいけないという固定観念→キクは大切な人を殺したから自分もそうすれば聴けるかも!?という思考に至る。

 (これは舞台の補足ですが、ハシがキクとの面会のとき「(音を)浮浪者にいたずらされた時にしか聴いてない!」みたいなことを言っていましたが、原作ではあれはハシが冒頭に催眠術にかけられて暴れて逃げたあと、彷徨い果てて行き着いた公衆便所で浮浪者に襲われた時の話です。)

 

◆ラストシーン

ハシが袋?を被って鎖に繋がれているところ。ハシはニヴァを刺し、精神病棟?施設?監獄?へ隔離されます。恐らく、その時に丁度キクとアネモネは東京をダチュラで爆撃し、東京は死の海に。ハシは解放され、外へ逃げると呆然。(ハシがいた場所は安全区域だった?)死体が転がる無人の街を彷徨うハシ。弱った女を発見する。お母さんだと錯覚、まき散らかれているダチュラを吸うハシ。破壊衝動が起こり女の首を締めようとする。そこでハシは心臓の音を聴く。そしてハシがとった行動とは…(原作を読んでほしいので最後曖昧にしてます)

初演は違ってたらしいけど再演では結構再現されてた。(設定違ったけど!)ここで原作も終わってます。

 

ざっくり、こんな感じです。長すぎるし、間違えてる部分見つけたら編集するかも……とりあえず、舞台と沿った部分を主に書きました。原作のファンなので、どうしてもこういう見方をしてしまう…申し訳ない。

 

ですが、この激濃い登場人物を演じる役者さんたちのエネルギーは凄まじい。そのエネルギーをストーリーの疑問符で掻き消されるのは勿体無いと思ったので、このブログを書きました。

舞台は舞台として完成しているので、この解説?はさまざまなコインロッカー・ベイビーズの見方のうちの一つだと思っていただけたら幸いです。

いろんな角度からこの作品を掘り下げれてよかった。大好きな作品を舞台化してくれてありがとう。

 

 これを見た人が、原作を読む気力が湧いたら嬉しいな。

 

ひとつ、わたしにもまだ不明点。友人がぽつりと言った疑問で、キクは東京を爆破させるつもりだったが、あんなに執着してたハシも巻き込むことは考えていたのかな。確かに…ハシの目的とキクの目的で完全に分離して考えてて、そこあんまり考えてなかった…。どうなんだろう…。

 

 

7/15 追記

 読んでいただきありがとうございます。もし、観劇予定はないけれど舞台が気になった方がいましたら、チケットの一般販売もしているみたいなのでよろしければご参考にしてみてください。当日券の販売もしているのかな…?

音楽劇『コインロッカー・ベイビーズ』 | PARCO STAGE

 

コインロッカー ・ベイビーズ原作

新装版 コインロッカー・ベイビーズ (講談社文庫)

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